1Kの窓辺から
19:30
上司から押し付けられた残業を片付けて家路につく。
公務員だから5時には帰る、というのは幻想なんだな、と少し重たいリュックを担いで歩く。
陽がのびたとはいえ、この時間はもう暗い。薄暗いアパートの外階段を歩きながら右ポケットの鍵を探す。
「ただいま」
「おかえりなさい、シャワー浴びて待ってて。まだじゃがいもが煮えないから。」
できた彼女だ。アルバイトが早く終わって帰ってきた日にはちゃんと夕食の支度をしてくれるのだ。柔らかい香りのホワイトシチューを楽しみにしながらシャワーで疲れを洗い流す。
伸びてきた髪の毛をそろそろ切ったらと言われながら、もうしばらくカットにも行けていない。シーズンは7月まで続くのだ。人々の幸せのために働くのは気分が良いだろうと言われるけれど、それだけじゃないことを知っている人は決して多くない。
「シチューにはブラックペッパーかける人だったわね、はい、冷めないうちに。」
「ありがとう。いただきます。」
バゲットを浸しながらスプーンでにんじんをすくった。小さく切ってある上に僕の方が多いのは彼女が苦手だからだ。求められた感想にはちゃんと答えたけれど、正直この愛情を言葉で表現するのは難しい。胸がいっぱいになると同時にシチュー皿の底が見えた。
「おかわりは?」
「軽くもらおうかな。」
エプロンが似合う横顔。いんげんをちゃんと忘れずに乗せるところもかわいらしい。
「今日はどう?いいアイデア浮かんだ?」
「うん、バイトで品出ししている時にいい歌詞が浮かんだの。あとで聴いてくれる?」
「もちろん。」
おかわりもして満足な夕食の食器を片付ける。洗い物は手が荒れるからと僕がやっている。彼女の手が荒れたら、ギターを弾くのに支障が出てしまう。
ただ彼女はちょっと不満なようだ。ちゃんと隅までスポンジで洗ってと言われているが、僕はどうも苦手なのと、そのふくれっつらが見たいから、すぐには直さないことにしている。
「洗い物終わったよ」
ギターを準備した彼女は、早く早くと僕を窓際に誘う。窓を背にして一曲歌うのが彼女のお気に入りらしい。
最初にアイドリングで一曲、彼女の気分で選曲。ハルノヒの1番だけ。低いからとちょっとあげたキーが心地よい。
次に思いついた歌詞に曲をつけた新曲。たどたどしさよりも初演が僕の前であることの嬉しさが上回るから、感想はつい長所ばかりをあげがちになってしまう。彼女はそれじゃ参考にならないと言うけれど、目元がなんだか嬉しそう。
最後にリクエストに答えてくれる。あの夢をなぞってをリクエスト。難しいよとこぼしながらも綺麗にアレンジしてまとめた演奏は、本家とはまたちょっと違う良さがある。
全3曲の公演が終わると僕はコーヒーを淹れる。酸味がほしい今日はグアテマラ。チョコレートには合わないかなと思いながらも出してみたら、やっぱり彼女は牛乳で割った。
2人で休日のおでかけに出かけた時に買ってきた大きなチョコレートを1日ずつ小さくポキンとわって食べる。
「今度の休みはどうしようか。」
「新しい夏用の布団とカーテンを買いたいわ。あとは夏服をみたい。」
「こないだ言ってたサンダルは?」
「欲しいけど、それじゃ買いすぎよ」
「ボーナスがあるよ」
「ダメ。それは貯金に回すんだから。使い込んじゃダメだからね。」
「わあった」
しっかりしている。ほんわかしていて抜けてそうなのに、こんなところはしっかりしているから任せられる。
夜はそう長くない。明日も出勤だ。
「そろそろ休もうかな」
「そうね」
「明日はまた早いから、朝は寝てていいよ」
「うん、いつもごめんね、お見送りもしないで」
「大丈夫、早く起こす方が申し訳ない」
収納が下に入る、幅が広いベッドで寝る。ベッドや布団を2つ並べると部屋が狭くなってしまうからと1つのベットしか用意していないのは、2人でいる時間をちょっとでも確保したいからかもしれない。少なくとも、僕はそうだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
窓の外を見る。郊外らしく星がよく見える。今度の休日はプラネタリウムでも良いな。相談しようと思ったときにはもう、横の彼女は静かに寝息をたてて既に夢の中だった。
幸せを噛み締めて目を閉じる。
明日もこの当たり前のような幸せが続きますようにと、願いをこめて。